五の章  さくら
 (お侍 extra)
 

        序




 人の心や在りようは、まこと、通り一遍なものじゃあないのだと。道理としては判っていたが、こうまで身に迫ってのこととして知ることになろうとは思わなくて。互いの心がちゃんと理解出来てもなお、侭ならぬことへともどかしかったり切なかったり。そんなジレンマに、自分の持ち物であるはずの“気持ち”が途轍もない不安にさらされ、手の届かぬところでヒリヒリと痛かったりした経験を、まさかこんな間合いで味あおうとは。

  ―― 心が豊かになるということは、嬉しいことばかりじゃあないのだな。

 普通の人が言うたなら、何をまた気取った言いようをと、乾いた笑いを誘うばかりだったかもしれないが。勿論のこと、カッコをつけた訳でもなければ、誰ぞへの当てこすりというものでもなく。誰かしらの反応や評を伺うでもないまま、ごくごく自然に思ったことをそのまま言うただけな彼だと判るから。それを耳にしてしまった七郎次としては、

 「そうなってしまったの、おイヤでしたか?」

 失くしたら辛くなるくらいなら、ささやかな幸いなんて最初から要りませんでしたかと。甘い風に乗り、どこから来るのかはらはらと、淡い緋色のはなびらが舞う中庭を眩しげに見やる白いお顔に静かに問えば、

 「…。(いいや)」

 ゆるゆると、かぶりを振ってのそおと否定し。そのまま、品のある口許がやわらかくほころぶ様こそ麗しく。
“ああ、何という微笑い方をなさるのでしょうね。”
 大切に取り置いたまだまだ若かった酒が、いつの間やら深みを増してのじんわりと甘い、そりゃあ質のいい逸品へと変わりゆくように。冴えはそのまま、刹那的なところ尖っていたところが、いい意味で練られてのよくよく育ち。別れを前に切なげに目許を潤ました彼が、そりゃあ寂しそうなお顔を初めて見せた、あの時よりもずっとのうんと。その胸へつきんと来るもの、まざまざと感じてしまったおっ母様であり、

 「?」
 「いえいえ、何でもありませぬ。」

 綺麗なものへの称賛と、それから…少しばかりの寂寥と。嬉しいのだか哀しいのだか、綯い混ぜになっての複雑そうなお顔になったのへ。どうしたの?と小首を傾げた久蔵の白面へ、愛おしげにそおと触れ。嬉しくても切なくなるものなんですよと、そんなややこしいことを言いたげに、目許をたわめた七郎次であり。

 「…そう、か。」

 そこまでの複雑なものは、あいにくとまだまだ未経験の久蔵ではあるけれど。自分を想ってくれての感慨で、胸が詰まった彼なのらしいというのは判るから。頬に触れてる手の温み、忘れまいぞとするかのように。静かに眸を伏せ、されるに任せる。ただただ優美に大人しいばかりのその様は。実は獰猛な性ながら、主人にだけはとことん柔順な、正しく 伝説の聖獣のような佇まいであり。春先の桜花まじりのやわらかな風の中、目にした者へ溜息つかせずにはおれないほどの、それは優しい情景を、知らずに紡いでいたご両人だった。







     東 風 〜またあした


        一の章



 それは凄惨だった都陥落から半年は経った ようやっとのことで、体裁が整った菊千代であり。元の体とほぼ変わらぬ見目の大男が、それでも…小さな許婚者が嬉しすぎての泣き出すと、

 【 馬鹿野郎、こんなめでてぇ日に泣く奴があるか。】

 威勢のいい啖呵を切ったつもりが、自分もまた嗚咽に声が詰まってしまい。さっそく故障だと誤魔化しかかって、工匠の正宗殿から げんのうでの拳骨を頂いてしまっていたりもし。そんな彼の快癒を、蛍屋に一席設けての身内で祝ってすぐのこと。早亀に乗せて神無村からの便りが届いた。菊千代の復活を祝う言葉とそれから、あちらも春の気配が日に日に色濃いこと、キララの手になる優しい言葉で綴られていて。村ではそろそろ間近い田植えの準備におおわらわ。田起こしに苗の植え付け、水をたたえるための畔の整備に…と、やることは山程だとか。

 「コマチも姉様のお仕事のお手伝いをせねばなりません。」

 大地と農耕にかかわりの深い“水分りの神様”を祀る身にしか出来ぬあれこれ、神聖なお務めが多々あるのだそうで。えっへんと胸を張った小さな巫女様のお言いようへ、成程それはもっともなことよと頷いて。顎へとたくわえたお髭を 白い手套はめた大きな手で撫でて見せ、どこか鹿爪らしいお顔になった勘兵衛様、

 「さようか。では、それらに間に合うよう、取り急ぎ 戻らねばならぬかの。」

 そんな風に言って、だが、すぐにもその目許を和やかに細めて見せたのだった。





        ◇◇◇



 先夜 蛍屋を襲った一団がどういう筋の者らだったのか。忙しいからか、それともそこまでの義理はないということか。引き渡した先の警邏隊から、その辺りの詳細を何か言って来るということは一切なかったので、正確なところの把握は難しかったものの。野次馬たちの“見た顔がいた”などという証言を集め、巧みに訊き込みをちょいと重ねて、それらの情報を統合したところ。神無村に倣ってのこと、農村に身を置いて野伏せりの襲撃を防ぐ…という“お役目”をくれた天主ウキョウの誘いに乗らなかったクチの、元・サムライたち。自分たちを飼い殺そうという目論み、下心として持ってたらしいアキンドの施しなぞ死んでも受けぬと、最後まで片意地張ってた浪人たちだったことが判明し、

 「本来ならば、野伏せりの残党が襲い掛かって来ることを警戒するところだが。」

 意外な連中ではあったようなと、顎髭撫でる勘兵衛へ。陽を浴びてますますの白さを増した優美な手元に、やさしい陰りの湯気立てて。香りも芳しいお茶を淹れつつ、

 「それは 事情をすべて見通した手合いなら…でございましょう?」

 七郎次が言わずもがななこと、付け足して差し上げる。もはや“そんなこともあったかねぇ”という扱いになりかけている、天主の行幸途上に起きたあの大惨事は、

  ―― 農村へ侍という用心棒を配置した天主を、
      逆恨みした野伏せりらが直接襲って相討ちとなった

 今や とうとうそれが真相だと確定されてしまっており。実をいや、その野伏せりと天主やアキンドらの間に繋がりがあったこととか、そんな真実を知ってしまった存在である関係者一同を、神無村ごと 事故と装い滅ぼそうとしたウキョウや大アキンドたちだったこと。そんな彼らを 彼らの戦力だった野伏せり諸共に、たったの七人で 見事 撃ち墜とした勘兵衛たちだった…という、そこまでの真相を全て知っていなくては、そんな理屈を引いては来れぬと、七郎次が微妙なお顔での苦笑を見せる。ああまでの殺戮沙汰を指して、さすがに手放しで愉快痛快だったとは思わないが、だからといって無情を噛みしめるような後悔もない。侍崩れとその黒幕を、非力な農民に成り代わり叩き伏せて下さいとの依頼、侍として完遂したまでのことであり。そして、それに関わった侍たちとしては、引き受けたお役目も終わり、その折に負った怪我もすっかりと癒えた以上、それぞれの道へと踏み出してゆくのもまた道理。脅威を追い払ったほどもの狼らが、そのまま居座っては何にもならぬからで。それに、そんな彼らには悪意もなくの信頼関係も厚く、村人にとっても頼もしい存在であったとて、それならそれで、今度は逆に“あの村には逆らうな”とばかり、まるで兵器を持った身のように周囲から見なされかねぬ。依頼されたは一つだけ、それを終えたからには、他のところへまで余計な変化・影響を齎してはならぬから。とっとと立ち去るのが重畳なのであり、そしてそれはここ蛍屋に対しても同じこと。菊千代という頼もしい連れ合いを供に、神無村へと戻る準備に余念のないコマチの出立に、いい“餞
(はなむけ)”が出来ればなと。先日からこっち、そのような曖昧な言いようをなさっておいでの御主であり、

 「………。」
 「おお戻ったか、久蔵。」

 音もなければ気配も薄く。やわらかな花弁広げた椿の茂みに囲まれた前庭へ、その姿を現した人影へ。離れの濡れ縁へと居並び、春の間近さ感じさす、いいお日和を堪能していた主従の片やがお声をかける。それへと目顔で応じて見せつつ、さくさくとその歩みを進めて来やるのは。真っ赤な衣紋がちょうど背後の椿の群生から滲み出したかのような印象を見せての、派手なんだのに落ち着いても見えるのが少々不思議なうら若い剣豪殿。あの大戦では“紅胡蝶”とのあだな持つ、生身の兵器だった君だが、

 「しっかと“眸合わせ”して来た。」

 相変わらずの手短な物言いへ、それを告げられた勘兵衛の側も深々と頷き、
「済まぬな、面倒な注文をつけて。」
 首尾よく運んでいればこそだろと思わせる、機嫌のよさげな笑みを目許口許へと滲ませる。こういう静かな表情には、いかにも年相応の落ち着きに納まり返った壮年殿という雰囲気がこぼれるものの、

 「策の内、なのだろう?」

 判る者にしか判らぬ微妙さで、口許の端、仄かに微笑って見せた久蔵の方の表情は、日頃の彼が刀剣のような…確たる手ごたえのある鍔ぜり合いにこそ喜悦を感ずる存在であることを慮すれば、かなりの剣呑な運びであることを忍ばせもし。それを見やった七郎次が、胸の内にてこそりと苦笑する。

 “やれやれ、何かおっかないことを企んでおいでであるらしいな。”

 やっと枝葉が伸び出したばかりの、瑞々しい若木を思わせるような。見るからにほっそりとした、嫋やかな痩躯をしておりながら。喩えではなくの小山のような、それは巨大な機巧躯相手に、その鋼の胴さえ斬り刻めるほどの、恐るべき刀さばきを持つところも秀逸ならば。そんな相手の急所が詰まった胸元へ、軽々と駆け上がれる身の軽さはもはや桁外れという、そんな特性を生かしてのこと。神無村からこの虹雅渓へと身を落ち着けてからこっち、日に何度かあちこちをぐるり見回るのが習慣になっていた久蔵へ、

 『下層の浪人どもの溜まりでは特に、
  いかにもな わざとらしい睥睨を残していってほしいのだが。』

 先の襲撃騒動で、全てが捕らえられたとも思えぬその上、例の“都 撃沈”という惨事により直接の親方を失い、それぞれの縄張りだった村や里からは、用心棒の侍による堅い抵抗に遭い、居場所を追われた野伏せりの手下共が、あちこちからこの町の近辺へ集まりつつあるとも訊く。立場は微妙に異なるものの、真の事情を知らぬままであるがゆえ、アキンド憎しという憎悪の矛先が同じの連中。窮状にある身を嘆き、その腹いせとやらから、先だってと同様な騒ぎを再び起こさぬとも限らない連中であり。本来ならば、そのような輩は、まだ確たる権限はないながら、それでもこの町の治安を守ることを旨とする、そりゃあ実直な総帥殿の信念に惚れた者らが集いし集団、新生の警邏隊があたるものであるのだが。惜しむらくは…今のところは人手が足らぬか、手際に未熟なところも見受けられ、ともかく実績を幾つも幾つも積むしかないという状態。それに、無頼の侍くずれというよな連中の中には、他人のことは言えないが、口の達者な説得上手もいるやもしれぬ。そんな輩が、地下へと身を潜ませての持久戦、警邏隊に集いし顔触れへ巧妙に接触し、武士道などなどもっともらしいお説を並べ、洗脳するよな籠絡作戦にでもかかったならば。

 『恐らくは兵庫殿への厚い信義で集っておる面々が大半なのだろうから、
  さほど案じる必要もないとは思うが。』

 それでも。そんな彼の役に立つならばとの方向で、危険な組織への潜入などという危ない橋を勝手に渡る者や、少しでも手勢を集めんとしての向こう見ずをやらかす者らが、絶対に出ないとまでは思えない。相手は大戦で鳴らした くせ者揃いなだけに、若手が中心の経験値が足りぬ彼らなぞ、気長に構えて ひょいと捻るも容易いことだろと思われて。

 『それへも加担してやれると思うのでな。』

 そのような、どこか謎めいた言いようをしての、久蔵へ見回りの仕方におまけを付け足すようにと依頼した勘兵衛。さて、一体どのような出奔を為すつもりでおわすやら。こればっかりは言ってもらわねば判らない、そんな身となっている自身も寂しと。新たにおいでの和子にも新しいお茶を淹れてやりつつ、感慨深い想いに胸を切なく振り絞られてもいた、色白のおっ母様だったりするのである。




←BACKTOPNEXT→***


  *随分と間を空けておりました、すみません。
   これで終章かと思うとつい、
   書き進む気もしぼみがちになるというもので。
   それでも、まさかに未完のままにする訳にもいかないのは、
   重々承知しております。
   頑張りますので、どかお持ちくださいませね?


戻る